国際化って何だろう?

柔道整復師の名称には「柔道」の二文字を戴いています。
その理由は歴史のページに譲り、柔道整復師の国際化を考えるためのヒントを柔道の国際化に求めてみましょう。

 

■柔道の世界的な組織

国際柔道連盟(IJF)は、1952年19カ国の柔道連盟で組織されて以来、現在では、世界5地域177カ国(アフリカ43、ヨーロッパ49、アジア38、オセアニア15、パンアメリカン32)の柔道連盟が加盟しています。

そして、その国際柔連盟規約の第1条には、「IJFは嘉納治五郎により創設されたものを柔道と認める。」と明記されています。これはまさに日本の柔道が、世界のJUDOとして見事に国際化を果たしたということであり、日本人として誇りに思います。



■柔道史の節目となった東京オリンピック

1882年に講道館を創設された嘉納治五郎先生は国民体育としての柔道普及の傍ら、1909年にはアジア初のオリンピック委員に就任され、師範方を伴い、世界を駆け巡り「講道館柔道」の世界各国への普及に努められ、遂には、1964年東京オリンピックにおいて柔道がオリンピックの正式種目に採用されました。

当時、第3回世界大会(パリ、第1〜2回ともに東京で開催)で日本選手を総なめにして頭角を現していたオランダのヘーシンク選手が、このオリンピックで神永昭夫選手を袈裟固めで破り、金メダルを獲得したのです。

オリンピック種目の柔道において、軽量級では中谷雄英選手、中量級で岡野功選手、重量級では猪熊功選手がそれぞれ金メダルを獲得、日本のお家芸を世界に見せ付けたのでした。しかし、無差別級において、日本は敗れました。

ある意味では、この時、日本柔道が敗れた結果、その後も柔道がスポーツ競技として世界へ開かれたオリンピック種目に定着したとも言われますが、その後も世界柔道連盟の発展を支えた講道館・全日本柔道連盟をはじめ、柔道師範の方々、海外在住の師範の方々のご尽力が功を奏し、柔道の世界的普及が進み、今われわれが目にしている「世界のJUDO」として結実した訳です。



■国際化は伝統文化に苦悩の選択を迫った

ヘーシンク選手の第3回世界大会優勝、東京オリンピックでの柔道無差別級金メダル獲得に関しては、この時期オランダ柔道協会最高顧問であった 道上 伯(みちがみはく) 師範の存在があったことは意外と知られていないようです。

同師範は、1938年大日本武道専門学校(京都武専)を卒業、1943年6段、1953年フランスのポネモリ氏(後のIJF会長)の招請により、欧州に渡り、チュニジア、アルジェリア、モロッコの技術最高顧問、ならびに、1955年-1968年の13年間にわたりオランダ柔道協会の最高顧問を勤め、日本と欧州諸国の異文化に挟まれながら、海外から国際化に貢献された師範です。ご息女のお一人が現在本校の臨床心理学を講義されている中谷三保子先生です。

このヘーシンク選手の講道館段位6段の認定問題に代表されるように、柔道競技(競技スポーツ)としての「JUDO」と日本の伝統柔道の間には、強い弱いとか勝ち負けではない「道という文化」の壁が存在しました。日本の伝統柔道がJUDO(国際化)となる過程には、日本文化の伝承者としての柔道家にとって多くの苦悩の選択がありました。



■国際化によって、得るもの・失うもの

合理的な階級制やポイント制の導入をはじめ、試合場の畳の色や選手の柔道着の色は、世界の「JUDO」のために日本文化が譲ってきたものなのでしょうが、試合でポイント取得に拘わり勝敗の駆け引きに終始する選手を見る限り、そこには伝統的な美意識は薄くなり、勝ち負け判定を競う格闘技ゲームに転化したと感じざるを得ません。

しかし最近は、日本人よりも海外の柔道家の方が、伝統的形式美である「礼法」や「形」への憧憬は深いように思います。国際化というものは、文化発祥の地にいる自分たち自身が異なった視点から再学習すべきことを大いに示唆してくれているようです。




柔道整復の国際化に関しては色々なご意見があることでしょうが、世界に柔道整復を紹介することで、国際的な議論が高まることや、逆に世界の代替医療を理解することが、日本の民族医学に根ざす柔道整復および柔道整復師を日本人がさらに深く再認識することになるものと考えます。
特に、学生の皆さんには、今から145年前、命をかけて日本を飛び出し、外国で見聞きしたものを著し、日本の将来に大きく影響を与えた福沢諭吉先生のごとく、柔道整復に限らず、日本と日本人を世界的な視野で認識し、将来を語り合うために、可能な限り異文化を体感していただきたいと考えています。それが本校の海外活動での主旨です。

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